- 山口 栄作
平成から令和、どんな議員でありたいか
コロナが流行る前はラグビーワールドカップやオリンピック前ということもあって沢山の外国人観光客でにぎわっていました。
実は松戸市は外国人が多く暮らす街でもありました。
特にベトナム人の増加が多く2015年頃のデータですが、ベトナム人の平成22年1月末の人数は269人だったものが、平成23年1月末は1334人と「1年間で5倍」のペースで増加しました。
(出展:産経新聞https://www.sankei.com/article/20150318-H6HHXCJK65PL7B4A37R4EPDOJU/)
コロナ拡大後は外国人の姿も減り、人口も微減という形になりました。
そんな三年を経て、2023年の春はまた少しずつ外国人の姿を見るようになってきました。
世界への玄関口である成田国際空港にも、賑わいが少し戻りつつありますね。
海外からの流入をはじめ県外からの移住など様々なバックボーンの人の流れを汲みながらも、歴史ある街並みや古くからの住民も入り混じる空気が松戸市にはあります。
新しい人や時代の移り変わりによって、多様な考えがでてきます。
SNSの発達によって情報の速度は倍以上になり、社会が移り変わるスピードはとてもはやくなったと感じます。
昭和に生まれ、平成、令和を議員として過ごしていく過程で「どのような議員を目指すか」という問いは常に自分の中にあります。
今回の県議会議員への挑戦は、実は長年考えていたことではありません。
30代から奔走してきた市議会議員も20年になり、課題はあるにせよ、一種の達成感と市議としての限界を感じていました。
年齢的にも50を過ぎて人生の折り返し。
政界に入った時は一回りも二回りも年上のベテラン議員の方々と対等に職務がまっとうできるように必死だった若い自分も、気づけばそのベテラン議員と呼ばれる立場にきていました。
20年という期間で区切りをつけて、残りは一市民として家族とともに歩んでいく、たまにはバイクを走らせながら松戸市の風を感じて過ごす。
そんな穏やかな日常を考えてもいました。
しかし色々な転機が重なり、ふと自分のなかで「次世代」というワードがひっかかったのです。
20年前の自分は苦労した道だとしても今の自分ならスムーズに進めることがある。
それはここまで支えてくださった市民の皆様や関わってきた方々のおかげです。
そうおもったときに私がやるべきことはもう残っていないのか、ともう一度問いました。
そうして出た答えが、次世代にバトンを繋いでいくこと。
後続の議員が市政をより進めやすいようにする基盤づくり、であった。
私の県政への挑戦は、これからの松戸市の発展や千葉県の連携への小さな一歩にすぎません。
その一歩を着実に進めていくために、周りの方々と手をとり進んでいきたいと思います。
いまはSNSがあり顔を見ずとも、距離を飛び越えて沢山の人にアプローチできる機会が普及しています。
そうしたテクノロジーの発展を取り入れていくことは、この先もっと重要になるでしょう。
時代にあったものを活用できるのは、いつだってその時代の中心である若い世代です。
とりわけ私はSNSがなかなか不慣れなものですから、そうした部分は上手く若い世代の力をお貸し頂きたいものです。
一方でSNSで注目をあつめるという軸でみると、奇抜な発案や耳障りのいい政策、そんな派手さが数字に繋がります。
ツールであるSNSが、ゴールにかわってしまったら?
数字に囚われた政策や活動は遠くの人からのいいねはあれど、近くの支持者の賛同は得難いかもしれません。
沢山の人にうったえ支持をあつめることは重要ですが、議員は市民の皆様のためにあることが使命なのです。
一番耳を傾けるべき意見は五感で感じられる、生の声であることを忘れてはなりません。
堅実で為になる政策や意見は、地味で映えないことも多いでしょう。
そんな平成(昭和?)のオジサンとして、令和の若い方々と上手く調和しあっていける柔らかさと信念をもった議員でありたいですね。